「で……?お前、この先どないするつもりや」
相手に聞こえない程度のため息をつきながら、男は仮面の男に問いかけた。
仄暗い洞窟の中、いつものように岩場に腰掛けながら、しかしいつもとは違って水溜りの水に映る神子の姿を食い入るように見つめている彼は、さっきからまともな返事をしない。
(気でも触れたんちゃうかな……)
ずっと探していた龍神の神子をあちらの世界で見つけてから、男はとんとおかしくなってしまった。
確かに以前から、神子を手に入れれば京を支配できる、とうすら寒い笑みを浮かべながら語っていたが。
どうも昨日から奴の比重がおかしいのだ。
彼の思考は明らかに神子>京になっていた。
たった一日で神子に異常なまでに執着するようになった、こいつ。
いったいどうしたというのだ。
自分はこいつの神性ともいうべきオーラに従ってここまで来た。
こいつの言うとおりにしていれば間違いないと思っていた。
だけれど。
(今のこいつは……)
これは少し龍神の神子について調べなければならないと、男はひっそり決意して男のそばを離れた。
(あの神子……いったい何者やっちゅーねん)
+++
(……あ、れ?)
目を開けると、辺り一面には暗い空間が広がっていた。
あの時と同じだ、さっき井戸に吸い込まれた時と同じところ。
それじゃ、またあの光の人……龍神とか言ってた人がいるんだろうか。
「あ、あの……りゅ、龍神さん、い、います、かー?」
ぼそっと上を仰ぎながら声をかけてみたけれど何の反応もなかった。
ただ暗い空間に音が広がっていくだけ。
誰かが現れそうな気配もなかった。
(いったい、どうしたって、いうんだ……)
また一人ぼっち。
いったいオレは何に巻き込まれてるんだ?
これからどうなるんだ?
何にもわからない。
どうしたらいいかと途方に暮れてしまいそうになったとき、不意に暗い空間に光が差し込む。
比喩ではなく、本当に。
(え?)
ぽっと頭上に灯ったそれはあっという間に空間に広がり、辺りを白で埋めていく。
どんどん眩しくなっていくそれは暗闇を飲み込んでなお強さを増す。
(まぶしっ……)
遮るものもなくて、空間が見る見るうちに染まっていく。
目を開けていられない。
なんなんだ、さっきから。
目が痛くなるくらいの強烈な光に瞼をきつく閉じた瞬間。
今度はふっと光が一瞬にして消えた。
まぶたの裏側からでも白く見えるほどだったのに、それが跡形もなく。
(な、なに?)
恐る恐る目を開けてみると、なぜか眼前には美しく整えられた日本庭園が広がっていた。
(日本庭園……日本庭園!?というか外が明るい!?)
思わず、両目をごしごしとこすって目をぱっと見開く。
ぼやける目をこすって見ても、同じ景色だ。
美しい日本庭園が広がっている。
よくよく自分の周りを見渡してみると、見たことのない部屋に自分が座っていることが分かった。
確実に10畳、いや、下手すると20畳はある木造のこの部屋には、初めて目にする調度品が揃えられている。
いや、一応見たことならある。
中学の時ぱらぱらと流し読みした国語の資料集に載っていた、平安時代のページ。
そこで見た全てにこの世界は酷似している。
ということは、ちょっと信じられないけれどここは平安時代なんだろうか。
あの訳がわからない井戸に吸い込まれて、タイムスリップしてしまったとか?
……そんなことって本当にあるんだろうか。
でも眼前に広がる景色は幻でも何でもない。
自分の頭がどこかにぶつけた拍子でおかしくなっていなければ、の話だが。
「お召物はお気に召されましたか、神子様」
「う、えっっ!?」
勢いをつけて後ろを振り返ると、さっきあの崖の上で助けてくれたあの女の子が微笑みながらオレの横を通り過ぎる。
彼女は、驚かせてしまい申し訳ありませんと頭を下げ、オレの向かい側に腰を落ち着けた。
ちら、とオレを一瞥すると、彼女はよかったですわ、よくお似合いです、と心から安堵したかのように息をついた。
それに違和感を感じてふと視線を自分の体に落とすと、オレはいつの間にか、着ていたシャツとズボンではなく少しクリーム色がかった水干と深緑色の袴を身に纏っていた。
「うえ、えっ!?な、なんっ、オレ、これ……」
おかしい。着替えた記憶が一切ない。
それなのにこの服はなんだ。いったいどうやってオレは着替えたんだ。
というかさっきまで夜じゃなかったか?オレ結構長い間意識がなかったのだろうか?
「ご安心ください神子様。女房がお手伝いさせていただきましたので大丈夫ですわ」
まったく何が大丈夫なのか理解できなかったけれど、勝手にこれを着たわけじゃないことは分かった。
というか、着替えさせられてたのに全然気づかなかったのは一体どういうことなのか。
その前に見られた?全部?見られたのか!?
そんなオレの思考なんかお構いなしに、目の前の女の子は深々とオレに頭を下げて話し始める。
「改めまして神子様、私は篠岡千代と申します。今日からあなた様にお仕えいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
「…え、つ、仕えるって……?」
「私は代々龍神の神子に仕えてきた星の一族の末裔なのです。ですからこれから神子であるあなた様に精いっぱいお仕えいたします」
だから仕えるってどういうことなの?
それに、夢の中で龍神が言ってた龍神の神子という言葉。
「あ、の、……ミコって、龍神の神子って、オレのこと……です、よね?その龍神の神子、って、な、なになんでしょ、う?」
そうだ、会う人会う人みんな神子神子言うけれど、龍神の神子って一体何なのかこれっぽっちもわからない。
それなのに、あなたが神子、なんて言われても困る。
そもそもオレはただの男子高校生で、神子なんて大層なものじゃないのに。
「龍の宝玉を光らせたということは龍神の神子として龍神様に選ばれた証。この京の危機を救うためにあなた様は神子に選ばれたのです」
……その話は龍神がなんとなく言っていたような気がする。
オレが選んだ、とか、この世界の理を正しく戻せ、とか。
でも、オレが知りたいのはそうじゃなくて。
「あ、の、わ、わかるように、説明して、もらえま、せん、か」
龍神の神子って一体何なんだ。
でも、返ってきたのはさっきと同じ。
「あなた様は龍神の神子なのです。あなた様のお力で京の危機を救っていただきたいのです」
「……それが、わから、ないん、だよ」
千代姫はどうやら勘違いをしているみたいだ。
彼女は龍神の神子とか、この世界のこととかの説明は全部すっ飛ばしてる。
初めっからオレはこの世界のことを知っていると思われているようだった。
そして当たり前のようにこの世界を救う、と。
でもそれは違う。
オレはこの世界のことなんて全然知らないし、まして突然連れてこられて興味など持てるわけもない。
龍神の神子とか世界の危機とかそんな壮大な話、薄情だとは思うがそんなのオレなんかがどうこうできる問題じゃない。
身近な人間すらまともに救えないような奴が、世界を救うだなんて。
「龍神の神子とか、危機とか、どうこうって、オレには、どうしようも、ない……んだけど。あの、シャツとズボン、返してもらえ、ませんか?」
オレ、元の世界に戻らなきゃならないから。
< なんとなく目を合わせにくくて俯いたままそう言うと、千代姫がぐっとこっちに近づく気配を感じた。
思わず顔をあげると、至近距離に彼女の険しい表情があった。
「いいえ、龍の宝玉に反応し、空を割りこの世界に現れた……あなた様はまさしく龍神の神子に選ばれたお方。どんなことがあっても元の世界にお帰しするわけにはまいりません」
「そ、そんな……」
その双眸に宿る強い意志に、口調に、冗談めかした色は一遍も浮かばなかった。
無茶苦茶だ。
一方的に連れてこられた上、満足のいく説明すらなしで。
こんな事態になってどうしたらいいかわからないのに、世界を救わなきゃ帰さないなどと脅された挙句元の世界に帰してももらえないなんて。
「……っで」「あー、はいはい。喧嘩はそこまで、ね、神子様、千代姫」
反論しようと口を開いた瞬間、渡り廊下の方からのんびりとした声が聞こえてきた。
声のした方に視線を向けると、さやさやという衣擦れの音と共に男の人が一人ひょこっと廊下から顔を出した。
(あ、この人……あの時もいた……)
崖の上の事件の時いた人だ。
男の人はのんびりと部屋に入ってくると、千代姫とオレの横にすとりとごく自然に腰かけた。
ふわりと柔らかそうな赤銅色の髪。
少したれ目気味の双眸は楽しげに瞬き、終始笑顔を絶やさずこちらを見ている。
オレはそういうことはよくわからないけれど、同性のオレから見てこの人はきっとモテるんだろうなーとなんとなく思った。
整った顔立ちもだけれど、纏う雰囲気がすごく柔らかい。
初めて会った人でも気を許せちゃうような親しみやすい雰囲気がにじみ出ている。
その証拠に、男の人がここに入ってきたとたん千代姫の雰囲気が少し穏やかになったのがわかった。
表情も怖いくらいに強張っていたのが少しほぐれて視線も柔らかになった。
「千代姫ー、そんなに詰め寄ったら神子様だって困っちゃうって」
くつくつと口に右手をあてて苦笑いをする。
その言葉で初めて自分のしていたことに気づいたように、バツの悪そうな顔をした千代姫は男の人に冷たい視線を送っていた。
「水谷殿、いらしていたのですか?御上に報告に行くとおっしゃっていたではありませんか」
「あー、それもうとっくに行ってきちゃったよ。今は別の用事言いつけられて帰ってきたところー。ホント人使い荒いよねー」
「水谷殿!御上に向かって何ということをおっしゃるのです!?」
「あーはいはい、ごめんごめん。それで、神子様と千代姫に挨拶しようとこちらに出向いたってわけ」
というわけで、改めて紹介してくれる?と男の人が千代姫を促すと、彼女はこほんと一つ咳払いをして彼を紹介してくれた。
「神子様、こちらは左近衛府少将であられる水谷文貴殿ですわ」
「よろしく神子様。あ、オレのことは普通に名前で呼んでくれていいから。堅苦しいの嫌いなんだよねーオレ」
「……っよ、よろしく、お願いします……っみ、三橋、廉、です……」
「あーあー、敬語とかもなしなし。見たとこ同い年ぐらいだし」
「水谷殿っ、あなたはそれでもよいですが神子様は龍神様に選ばれた尊い御方。きちんと敬っていただかなければ困ります!」
「……っあの、全然、かまわないんで、オレ……」
「……こう言ってるけどー?」
「まあ、神子様……なんてお優しい……さすが龍神様がお選びになった御方」
千代姫は目をキラキラさせてこっちを見ている。
いや、優しいとかじゃなくて……。
そんなことを考えて、はた、と思い出す。
そういえばこの人、昨日あの場にいたんだった。
もしかしたらいろいろ知ってるのかもしれない。
龍神の神子のこととか、昨日の人たちのこととか。
今オレに何が起きてるのか、とか。
「あ、あの……」
思い切って水谷……君に声をかけると、ん?とこっちを見た彼は次の瞬間合点がいったようにああ、と頷いた。
「ん?なに、もしかして何か聞きたいことでもあるの?……んー答えてあげたいのは山々なんだけどオレもよくわかってなくてさー」
たはは、と苦笑いをしながら頭に手をやる。
それを見ていた千代姫は盛大に大きなため息をついた。
「たはは、ではありませんわ水谷殿。仮にも八葉の一人として宝玉に選ばれた方なのですから自覚を持ってくださいまし」
「わかってるって!でも、ついさっきのことだし無茶言わないでよー。その代わり、残りの4人を探せっていう御上からの勅命が下ったんだ。そっちを頑張るからさ、まずは」
「まあ、さすが御上。もう動いてくださったのですか!?」
「そういうわけだから、残りの4人もきっとすぐに見つかるよ。安心して、神子様……三橋の方がいいかな?」
呼びやすいし、と水谷君は首をひねっていた。
オレはといえば、話についていくので精いっぱいで呼び方とかにこだわっている場合じゃなかった。
八葉って?4人は見つかっているって?残りの4人はもうすぐ見つかる?
少しでもこの世界のことを理解したかったのに、今のちょっとした会話でさらにわからないことが増えた。
とりあえず、今の話からして八葉とかいうのを探さなきゃいけない……のだろうか?
やっぱりよくわからない。
謎が多すぎて不安ばかりが増えていく。
(オレ……一体どうなっちゃうんだろう……)
思わずジワリと視界が滲んだことを悟られないように、俯いてやり過ごす。
怖い。
知らない世界で、知らない人に囲まれているのが怖い。
オレの知らないところで、大きな力で話が勝手に動いていくのが怖い。
先が見えないことが怖い。
「どうしたー?大丈夫?」
ポンポンと。
頭を軽く叩かれて、顔を上げてみると。
にっこりと笑う、水谷君の顔が間近にあった。
びっくりして思わずこちんと固まる。
そんなオレの反応にも全くかまう様子はなく、水谷君はオレの頭をポンポンと叩き続けている。
まるで、小さな子供をあやすみたいにゆっくりと。
水谷君はオレと視線が合うと、ヘラリと緩く笑った。
「そーだよなー、いきなりこんな世界に飛ばされて不安にならないわけがないよなー」
ごめんなー気づいてあげられなくて、と申し訳なさそうな顔をする水谷君。
オレはその一言に心の中で首をひねる。
なんで、水谷君が謝るの?
だって水谷君が何かしたわけじゃないのに。
ぽかんと水谷君を見ると、また彼は苦笑いをして、でもなーと続けた。
「龍神の神子の力がどうしても必要なんだってさ」
不意に水谷君がオレの頭を叩くのを止めた。
シュッと衣擦れの音がして、水谷君が立ち上がる。
「オレは龍神についてはほとんど何も知らないから教えてやれることは何もない、ごめんなー」
申し訳なさそうに眉根を寄せて自嘲気味の笑みを浮かべる水谷君に、オレは黙って首を横に振ることしかできなかった。
水谷君はオレを一瞥してふっと息を吐いた。
「また来るよ。オレ八葉に選ばれたみたいだし、御上からの命令だし。ちょっとはちゃんとやらないとね、ってことで。それじゃこれで」
ひらひらと右手を振りながら、水谷君は部屋から出ていこうとする。
その横で千代姫が焦ったように立ち上がって、水谷君とオレに交互に視線を移した。
「っみ、神子様、大変申し訳ありませんが御前を失礼いたします。しばしお待ちになってくださいませ。……水谷殿!」
何度か逡巡した後千代姫はオレに向かって一礼して、着物をさっと翻し水谷君を追って行ってしまった。
そういえばこの時代が平安時代に似ているなら、水谷君って帝?とかに直接会えちゃうくらい身分の高い人なんだよね。
いくら中学の古典の成績が悲惨だったオレだって、それくらいのことはなんとなくわかる。
(見送りとか、しなきゃいけないのかー、身分っていうのもちょっと大変、なんだな)
2人が出て行った後の廊下を見つめながらふとそんな場違いなことを考えてしまった。
そんなこと考えている場合じゃないっていうのに。
さて、これからどうしたらいいだろう。
千代姫の言ったとおり、彼女が戻ってくるまでここで待っているか。
それとも会話が通じそうな人を探しにここから出かけるか。
そこまで考えて、どう考えても前者だろう、という結論に至った。
この世界のことがよくわかっていないのに、1人でこんなところを歩きまわるなんて無謀すぎるよね。
(あ、でも屋敷の中を見て回る分には問題ないかもしれない)
もしかしたら屋敷の中に話の通じる人が1人や2人いるかもしれないし。
このまま彼女と話していても堂々巡りなのは、明らかだもの。
(よし、一か八か、ここから動いて……)
「おーい、三橋ー?」
「三橋ー、いるなら返事してー」
たった数時間しか経っていないのに懐かしいと感じる声が奥から聞こえてきた。
相手に聞こえない程度のため息をつきながら、男は仮面の男に問いかけた。
仄暗い洞窟の中、いつものように岩場に腰掛けながら、しかしいつもとは違って水溜りの水に映る神子の姿を食い入るように見つめている彼は、さっきからまともな返事をしない。
(気でも触れたんちゃうかな……)
ずっと探していた龍神の神子をあちらの世界で見つけてから、男はとんとおかしくなってしまった。
確かに以前から、神子を手に入れれば京を支配できる、とうすら寒い笑みを浮かべながら語っていたが。
どうも昨日から奴の比重がおかしいのだ。
彼の思考は明らかに神子>京になっていた。
たった一日で神子に異常なまでに執着するようになった、こいつ。
いったいどうしたというのだ。
自分はこいつの神性ともいうべきオーラに従ってここまで来た。
こいつの言うとおりにしていれば間違いないと思っていた。
だけれど。
(今のこいつは……)
これは少し龍神の神子について調べなければならないと、男はひっそり決意して男のそばを離れた。
(あの神子……いったい何者やっちゅーねん)
+++
(……あ、れ?)
目を開けると、辺り一面には暗い空間が広がっていた。
あの時と同じだ、さっき井戸に吸い込まれた時と同じところ。
それじゃ、またあの光の人……龍神とか言ってた人がいるんだろうか。
「あ、あの……りゅ、龍神さん、い、います、かー?」
ぼそっと上を仰ぎながら声をかけてみたけれど何の反応もなかった。
ただ暗い空間に音が広がっていくだけ。
誰かが現れそうな気配もなかった。
(いったい、どうしたって、いうんだ……)
また一人ぼっち。
いったいオレは何に巻き込まれてるんだ?
これからどうなるんだ?
何にもわからない。
どうしたらいいかと途方に暮れてしまいそうになったとき、不意に暗い空間に光が差し込む。
比喩ではなく、本当に。
(え?)
ぽっと頭上に灯ったそれはあっという間に空間に広がり、辺りを白で埋めていく。
どんどん眩しくなっていくそれは暗闇を飲み込んでなお強さを増す。
(まぶしっ……)
遮るものもなくて、空間が見る見るうちに染まっていく。
目を開けていられない。
なんなんだ、さっきから。
目が痛くなるくらいの強烈な光に瞼をきつく閉じた瞬間。
今度はふっと光が一瞬にして消えた。
まぶたの裏側からでも白く見えるほどだったのに、それが跡形もなく。
(な、なに?)
恐る恐る目を開けてみると、なぜか眼前には美しく整えられた日本庭園が広がっていた。
(日本庭園……日本庭園!?というか外が明るい!?)
思わず、両目をごしごしとこすって目をぱっと見開く。
ぼやける目をこすって見ても、同じ景色だ。
美しい日本庭園が広がっている。
よくよく自分の周りを見渡してみると、見たことのない部屋に自分が座っていることが分かった。
確実に10畳、いや、下手すると20畳はある木造のこの部屋には、初めて目にする調度品が揃えられている。
いや、一応見たことならある。
中学の時ぱらぱらと流し読みした国語の資料集に載っていた、平安時代のページ。
そこで見た全てにこの世界は酷似している。
ということは、ちょっと信じられないけれどここは平安時代なんだろうか。
あの訳がわからない井戸に吸い込まれて、タイムスリップしてしまったとか?
……そんなことって本当にあるんだろうか。
でも眼前に広がる景色は幻でも何でもない。
自分の頭がどこかにぶつけた拍子でおかしくなっていなければ、の話だが。
「お召物はお気に召されましたか、神子様」
「う、えっっ!?」
勢いをつけて後ろを振り返ると、さっきあの崖の上で助けてくれたあの女の子が微笑みながらオレの横を通り過ぎる。
彼女は、驚かせてしまい申し訳ありませんと頭を下げ、オレの向かい側に腰を落ち着けた。
ちら、とオレを一瞥すると、彼女はよかったですわ、よくお似合いです、と心から安堵したかのように息をついた。
それに違和感を感じてふと視線を自分の体に落とすと、オレはいつの間にか、着ていたシャツとズボンではなく少しクリーム色がかった水干と深緑色の袴を身に纏っていた。
「うえ、えっ!?な、なんっ、オレ、これ……」
おかしい。着替えた記憶が一切ない。
それなのにこの服はなんだ。いったいどうやってオレは着替えたんだ。
というかさっきまで夜じゃなかったか?オレ結構長い間意識がなかったのだろうか?
「ご安心ください神子様。女房がお手伝いさせていただきましたので大丈夫ですわ」
まったく何が大丈夫なのか理解できなかったけれど、勝手にこれを着たわけじゃないことは分かった。
というか、着替えさせられてたのに全然気づかなかったのは一体どういうことなのか。
その前に見られた?全部?見られたのか!?
そんなオレの思考なんかお構いなしに、目の前の女の子は深々とオレに頭を下げて話し始める。
「改めまして神子様、私は篠岡千代と申します。今日からあなた様にお仕えいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
「…え、つ、仕えるって……?」
「私は代々龍神の神子に仕えてきた星の一族の末裔なのです。ですからこれから神子であるあなた様に精いっぱいお仕えいたします」
だから仕えるってどういうことなの?
それに、夢の中で龍神が言ってた龍神の神子という言葉。
「あ、の、……ミコって、龍神の神子って、オレのこと……です、よね?その龍神の神子、って、な、なになんでしょ、う?」
そうだ、会う人会う人みんな神子神子言うけれど、龍神の神子って一体何なのかこれっぽっちもわからない。
それなのに、あなたが神子、なんて言われても困る。
そもそもオレはただの男子高校生で、神子なんて大層なものじゃないのに。
「龍の宝玉を光らせたということは龍神の神子として龍神様に選ばれた証。この京の危機を救うためにあなた様は神子に選ばれたのです」
……その話は龍神がなんとなく言っていたような気がする。
オレが選んだ、とか、この世界の理を正しく戻せ、とか。
でも、オレが知りたいのはそうじゃなくて。
「あ、の、わ、わかるように、説明して、もらえま、せん、か」
龍神の神子って一体何なんだ。
でも、返ってきたのはさっきと同じ。
「あなた様は龍神の神子なのです。あなた様のお力で京の危機を救っていただきたいのです」
「……それが、わから、ないん、だよ」
千代姫はどうやら勘違いをしているみたいだ。
彼女は龍神の神子とか、この世界のこととかの説明は全部すっ飛ばしてる。
初めっからオレはこの世界のことを知っていると思われているようだった。
そして当たり前のようにこの世界を救う、と。
でもそれは違う。
オレはこの世界のことなんて全然知らないし、まして突然連れてこられて興味など持てるわけもない。
龍神の神子とか世界の危機とかそんな壮大な話、薄情だとは思うがそんなのオレなんかがどうこうできる問題じゃない。
身近な人間すらまともに救えないような奴が、世界を救うだなんて。
「龍神の神子とか、危機とか、どうこうって、オレには、どうしようも、ない……んだけど。あの、シャツとズボン、返してもらえ、ませんか?」
オレ、元の世界に戻らなきゃならないから。
< なんとなく目を合わせにくくて俯いたままそう言うと、千代姫がぐっとこっちに近づく気配を感じた。
思わず顔をあげると、至近距離に彼女の険しい表情があった。
「いいえ、龍の宝玉に反応し、空を割りこの世界に現れた……あなた様はまさしく龍神の神子に選ばれたお方。どんなことがあっても元の世界にお帰しするわけにはまいりません」
「そ、そんな……」
その双眸に宿る強い意志に、口調に、冗談めかした色は一遍も浮かばなかった。
無茶苦茶だ。
一方的に連れてこられた上、満足のいく説明すらなしで。
こんな事態になってどうしたらいいかわからないのに、世界を救わなきゃ帰さないなどと脅された挙句元の世界に帰してももらえないなんて。
「……っで」「あー、はいはい。喧嘩はそこまで、ね、神子様、千代姫」
反論しようと口を開いた瞬間、渡り廊下の方からのんびりとした声が聞こえてきた。
声のした方に視線を向けると、さやさやという衣擦れの音と共に男の人が一人ひょこっと廊下から顔を出した。
(あ、この人……あの時もいた……)
崖の上の事件の時いた人だ。
男の人はのんびりと部屋に入ってくると、千代姫とオレの横にすとりとごく自然に腰かけた。
ふわりと柔らかそうな赤銅色の髪。
少したれ目気味の双眸は楽しげに瞬き、終始笑顔を絶やさずこちらを見ている。
オレはそういうことはよくわからないけれど、同性のオレから見てこの人はきっとモテるんだろうなーとなんとなく思った。
整った顔立ちもだけれど、纏う雰囲気がすごく柔らかい。
初めて会った人でも気を許せちゃうような親しみやすい雰囲気がにじみ出ている。
その証拠に、男の人がここに入ってきたとたん千代姫の雰囲気が少し穏やかになったのがわかった。
表情も怖いくらいに強張っていたのが少しほぐれて視線も柔らかになった。
「千代姫ー、そんなに詰め寄ったら神子様だって困っちゃうって」
くつくつと口に右手をあてて苦笑いをする。
その言葉で初めて自分のしていたことに気づいたように、バツの悪そうな顔をした千代姫は男の人に冷たい視線を送っていた。
「水谷殿、いらしていたのですか?御上に報告に行くとおっしゃっていたではありませんか」
「あー、それもうとっくに行ってきちゃったよ。今は別の用事言いつけられて帰ってきたところー。ホント人使い荒いよねー」
「水谷殿!御上に向かって何ということをおっしゃるのです!?」
「あーはいはい、ごめんごめん。それで、神子様と千代姫に挨拶しようとこちらに出向いたってわけ」
というわけで、改めて紹介してくれる?と男の人が千代姫を促すと、彼女はこほんと一つ咳払いをして彼を紹介してくれた。
「神子様、こちらは左近衛府少将であられる水谷文貴殿ですわ」
「よろしく神子様。あ、オレのことは普通に名前で呼んでくれていいから。堅苦しいの嫌いなんだよねーオレ」
「……っよ、よろしく、お願いします……っみ、三橋、廉、です……」
「あーあー、敬語とかもなしなし。見たとこ同い年ぐらいだし」
「水谷殿っ、あなたはそれでもよいですが神子様は龍神様に選ばれた尊い御方。きちんと敬っていただかなければ困ります!」
「……っあの、全然、かまわないんで、オレ……」
「……こう言ってるけどー?」
「まあ、神子様……なんてお優しい……さすが龍神様がお選びになった御方」
千代姫は目をキラキラさせてこっちを見ている。
いや、優しいとかじゃなくて……。
そんなことを考えて、はた、と思い出す。
そういえばこの人、昨日あの場にいたんだった。
もしかしたらいろいろ知ってるのかもしれない。
龍神の神子のこととか、昨日の人たちのこととか。
今オレに何が起きてるのか、とか。
「あ、あの……」
思い切って水谷……君に声をかけると、ん?とこっちを見た彼は次の瞬間合点がいったようにああ、と頷いた。
「ん?なに、もしかして何か聞きたいことでもあるの?……んー答えてあげたいのは山々なんだけどオレもよくわかってなくてさー」
たはは、と苦笑いをしながら頭に手をやる。
それを見ていた千代姫は盛大に大きなため息をついた。
「たはは、ではありませんわ水谷殿。仮にも八葉の一人として宝玉に選ばれた方なのですから自覚を持ってくださいまし」
「わかってるって!でも、ついさっきのことだし無茶言わないでよー。その代わり、残りの4人を探せっていう御上からの勅命が下ったんだ。そっちを頑張るからさ、まずは」
「まあ、さすが御上。もう動いてくださったのですか!?」
「そういうわけだから、残りの4人もきっとすぐに見つかるよ。安心して、神子様……三橋の方がいいかな?」
呼びやすいし、と水谷君は首をひねっていた。
オレはといえば、話についていくので精いっぱいで呼び方とかにこだわっている場合じゃなかった。
八葉って?4人は見つかっているって?残りの4人はもうすぐ見つかる?
少しでもこの世界のことを理解したかったのに、今のちょっとした会話でさらにわからないことが増えた。
とりあえず、今の話からして八葉とかいうのを探さなきゃいけない……のだろうか?
やっぱりよくわからない。
謎が多すぎて不安ばかりが増えていく。
(オレ……一体どうなっちゃうんだろう……)
思わずジワリと視界が滲んだことを悟られないように、俯いてやり過ごす。
怖い。
知らない世界で、知らない人に囲まれているのが怖い。
オレの知らないところで、大きな力で話が勝手に動いていくのが怖い。
先が見えないことが怖い。
「どうしたー?大丈夫?」
ポンポンと。
頭を軽く叩かれて、顔を上げてみると。
にっこりと笑う、水谷君の顔が間近にあった。
びっくりして思わずこちんと固まる。
そんなオレの反応にも全くかまう様子はなく、水谷君はオレの頭をポンポンと叩き続けている。
まるで、小さな子供をあやすみたいにゆっくりと。
水谷君はオレと視線が合うと、ヘラリと緩く笑った。
「そーだよなー、いきなりこんな世界に飛ばされて不安にならないわけがないよなー」
ごめんなー気づいてあげられなくて、と申し訳なさそうな顔をする水谷君。
オレはその一言に心の中で首をひねる。
なんで、水谷君が謝るの?
だって水谷君が何かしたわけじゃないのに。
ぽかんと水谷君を見ると、また彼は苦笑いをして、でもなーと続けた。
「龍神の神子の力がどうしても必要なんだってさ」
不意に水谷君がオレの頭を叩くのを止めた。
シュッと衣擦れの音がして、水谷君が立ち上がる。
「オレは龍神についてはほとんど何も知らないから教えてやれることは何もない、ごめんなー」
申し訳なさそうに眉根を寄せて自嘲気味の笑みを浮かべる水谷君に、オレは黙って首を横に振ることしかできなかった。
水谷君はオレを一瞥してふっと息を吐いた。
「また来るよ。オレ八葉に選ばれたみたいだし、御上からの命令だし。ちょっとはちゃんとやらないとね、ってことで。それじゃこれで」
ひらひらと右手を振りながら、水谷君は部屋から出ていこうとする。
その横で千代姫が焦ったように立ち上がって、水谷君とオレに交互に視線を移した。
「っみ、神子様、大変申し訳ありませんが御前を失礼いたします。しばしお待ちになってくださいませ。……水谷殿!」
何度か逡巡した後千代姫はオレに向かって一礼して、着物をさっと翻し水谷君を追って行ってしまった。
そういえばこの時代が平安時代に似ているなら、水谷君って帝?とかに直接会えちゃうくらい身分の高い人なんだよね。
いくら中学の古典の成績が悲惨だったオレだって、それくらいのことはなんとなくわかる。
(見送りとか、しなきゃいけないのかー、身分っていうのもちょっと大変、なんだな)
2人が出て行った後の廊下を見つめながらふとそんな場違いなことを考えてしまった。
そんなこと考えている場合じゃないっていうのに。
さて、これからどうしたらいいだろう。
千代姫の言ったとおり、彼女が戻ってくるまでここで待っているか。
それとも会話が通じそうな人を探しにここから出かけるか。
そこまで考えて、どう考えても前者だろう、という結論に至った。
この世界のことがよくわかっていないのに、1人でこんなところを歩きまわるなんて無謀すぎるよね。
(あ、でも屋敷の中を見て回る分には問題ないかもしれない)
もしかしたら屋敷の中に話の通じる人が1人や2人いるかもしれないし。
このまま彼女と話していても堂々巡りなのは、明らかだもの。
(よし、一か八か、ここから動いて……)
「おーい、三橋ー?」
「三橋ー、いるなら返事してー」
たった数時間しか経っていないのに懐かしいと感じる声が奥から聞こえてきた。
めちゃくちゃ難産だった 水谷出張りすぎ ゲームやり直したら藤姫の話が通じなくてちょっとイラッ☆
2008/12/18 composed by Hal Harumiya
2008/12/18 composed by Hal Harumiya