「俺の花嫁殿は退屈そうだな」
ドアをノックする音が響いて、誰だろうと思いながらドアを開くと、ここにいるはずのない人の姿。
アシュ……ヴィン?
「え?」
それっきりわたしの声は出てくれない。
帰ってきたら、仕事は終わったの?とか、疲れてない?とか、成果はどうだったの?とかいろいろ聞きたいことはあったはずなのに、そんなことは全部吹き飛んでわたしはただ目の前にいる人の姿を見つめていた。
だって、こんなに早くここに来るとは思わなくて。
この間の大喧嘩以来、彼は出かける時と帰ってきた時、必ずわたしの部屋に挨拶しに来てしてくれるようになった。 本当にあの時から比べると大きな進歩だと思う。 でも、それがなんだかくすぐったくてしょうがない。
例えば、朝出かける時、どんな顔で「いってらっしゃい」なんて言えたものだろう。 そんな甘ーい新婚カップルのようなこと、できるわけがない。恥ずかしすぎる。(実際はまだまだ新婚なのだけれど)
なんとなく心配していることを悟られたくないし、かといって、笑顔で「がんばれ!」なんてとてもじゃないけど言えない。 そこまで平気な顔で、もしかしたら危険かもしれない場所に送り出すことなんてできない。
だから決まり文句はいつも、
「……気をつけてよね」
だったりする。
そう呟くように言うと、いつも彼は仕方のない女だ、とでもいうかのように薄く笑みを浮かべ、
「ああ」
と、わたしの頭にポンと手を乗せてから出ていく。
その後姿を眺めながら、なんとなく地団駄を踏みたくなるのもいつものこと。
( 全部わたしの考えを見透かされてるみたい )
自分だけドキドキグルグルしているなんてバカみたいだってわたしが考えていることも、でもどうしようもないことも。 分かった上でのあの余裕の笑み。 いつも彼が優勢な気がしてすごく、悔しい。
帰ってくる時は帰ってくる時で、わたしの部屋をノックすると、
「帰ったぞ。お前ももう床に就け。じゃあな」
と一言残し、また頭をポンポンと撫で、悠然と出ていく。
確かに帰ってくる時間はいつも遅い。
だからいつもそうやってさっといなくなられると、聞きたいことがあったのに、話したいことがあったのに、とすごく寂しい気持ちになる。
なるのだけれども。
「?どうした?俺がこんな早い時間にお前の部屋を訪れるのがそんなに意外か?」
わたしが何にも反応しないことに興味をひかれたのか、薄く笑いながらアシュヴィンが問う。
わたしはといえば、とにかく何か言葉を発しようと頭を働かせようとしているのだけれど、「え?」とか、「あ、えと」とかもうそんな単語ですらない言葉しか出てこない。 それぐらい心の準備というものができていなかった。
とにかくわたしはなんとか頭を整理させて、何か聞かなきゃと頭を回転させた。
その結果。
「な、なんで今日はこんなに早いのよ?」
ああ、なんてバカな質問。
いくら仕事が山積みな皇太子といえどさっさと片付く日だってあるだろうに。
でも、いつも大体同じ時刻にここに来ていたから、心の準備もできていたのに。 こんな不意打ち、ちょっと卑怯だ。
「仕事が早く片付いたから、早く来ただけだが……そうか、来てはいけなかったのか」
アシュヴィンはまるで本当に傷ついたかのように声のトーンを少し落とした。 最後の言葉を妙にゆっくりしゃべるあたり、絶対わたしの考えを読めているはずなのに、この人は本当にずるい。
「ちがっ、……そういう意味じゃないってわかっているでしょ!?」
そう言い返すと、アシュヴィンは口元に右手を当て、くつくつと笑い出した。
「くっ……いや、すまん。そんなに俺のことで動揺するお前を初めて見たと思ってな」
いや、二回目か?前の件があるしな、と空いている手でわたしの頭を撫でながら彼は言う。
「……っ、やっぱりあなたはずるいわ……」
そうやって、わたしを怒らせるのも、動揺させるのも、自分しかできないってわかっているかのよう。
そして。
頭を撫でられる。
たったそれだけの行為なのに。
わたしはたったそれだけのことでも幸せに感じてしまう。
そのこともすべてわかっているかのように、彼は事あるごとにわたしの頭を撫でる。
それがずるくなくて、一体この世の何がずるいのだろう。
「俺がずるい?……それならおまえだってずるいだろう?」
言われている意味がわからなくて首を傾げると、彼はその笑みを深くして、
「そんなに無防備な顔で俺を誘ってるんだからな」
わたしの耳元に唇を寄せた。
「なっ……」
今度こそ完全に口がきけなくなってしまったわたしに、彼はダメ押しのひとことをわたしに告げる。
「今日は無性にお前に会いたくなった。……付き合ってもらうからな、覚悟しておけ」
付き合うって何に!?と焦るわたしに、アシュヴィンは堪えきれなくなったかのように、ぶはっと噴き出した。
「寝る前の散歩だ散歩。それともなんだ?別のことがしたかったのか?」
それでもこちらは全然かまわないがと、ニヤニヤ笑うアシュヴィンをどうやったら負かすことができるかと考えながら、わたしはとりあえず、
「……アシュヴィンのバカーーーーーー!!!」
と、プラス、パーンという気持ちいいくらい乾いた音をお返ししてあげた。
もう、絶対絶対口なんかきいてやらないんだから!
ドアをノックする音が響いて、誰だろうと思いながらドアを開くと、ここにいるはずのない人の姿。
アシュ……ヴィン?
「え?」
それっきりわたしの声は出てくれない。
帰ってきたら、仕事は終わったの?とか、疲れてない?とか、成果はどうだったの?とかいろいろ聞きたいことはあったはずなのに、そんなことは全部吹き飛んでわたしはただ目の前にいる人の姿を見つめていた。
だって、こんなに早くここに来るとは思わなくて。
この間の大喧嘩以来、彼は出かける時と帰ってきた時、必ずわたしの部屋に挨拶しに来てしてくれるようになった。 本当にあの時から比べると大きな進歩だと思う。 でも、それがなんだかくすぐったくてしょうがない。
例えば、朝出かける時、どんな顔で「いってらっしゃい」なんて言えたものだろう。 そんな甘ーい新婚カップルのようなこと、できるわけがない。恥ずかしすぎる。(実際はまだまだ新婚なのだけれど)
なんとなく心配していることを悟られたくないし、かといって、笑顔で「がんばれ!」なんてとてもじゃないけど言えない。 そこまで平気な顔で、もしかしたら危険かもしれない場所に送り出すことなんてできない。
だから決まり文句はいつも、
「……気をつけてよね」
だったりする。
そう呟くように言うと、いつも彼は仕方のない女だ、とでもいうかのように薄く笑みを浮かべ、
「ああ」
と、わたしの頭にポンと手を乗せてから出ていく。
その後姿を眺めながら、なんとなく地団駄を踏みたくなるのもいつものこと。
( 全部わたしの考えを見透かされてるみたい )
自分だけドキドキグルグルしているなんてバカみたいだってわたしが考えていることも、でもどうしようもないことも。 分かった上でのあの余裕の笑み。 いつも彼が優勢な気がしてすごく、悔しい。
帰ってくる時は帰ってくる時で、わたしの部屋をノックすると、
「帰ったぞ。お前ももう床に就け。じゃあな」
と一言残し、また頭をポンポンと撫で、悠然と出ていく。
確かに帰ってくる時間はいつも遅い。
だからいつもそうやってさっといなくなられると、聞きたいことがあったのに、話したいことがあったのに、とすごく寂しい気持ちになる。
なるのだけれども。
「?どうした?俺がこんな早い時間にお前の部屋を訪れるのがそんなに意外か?」
わたしが何にも反応しないことに興味をひかれたのか、薄く笑いながらアシュヴィンが問う。
わたしはといえば、とにかく何か言葉を発しようと頭を働かせようとしているのだけれど、「え?」とか、「あ、えと」とかもうそんな単語ですらない言葉しか出てこない。 それぐらい心の準備というものができていなかった。
とにかくわたしはなんとか頭を整理させて、何か聞かなきゃと頭を回転させた。
その結果。
「な、なんで今日はこんなに早いのよ?」
ああ、なんてバカな質問。
いくら仕事が山積みな皇太子といえどさっさと片付く日だってあるだろうに。
でも、いつも大体同じ時刻にここに来ていたから、心の準備もできていたのに。 こんな不意打ち、ちょっと卑怯だ。
「仕事が早く片付いたから、早く来ただけだが……そうか、来てはいけなかったのか」
アシュヴィンはまるで本当に傷ついたかのように声のトーンを少し落とした。 最後の言葉を妙にゆっくりしゃべるあたり、絶対わたしの考えを読めているはずなのに、この人は本当にずるい。
「ちがっ、……そういう意味じゃないってわかっているでしょ!?」
そう言い返すと、アシュヴィンは口元に右手を当て、くつくつと笑い出した。
「くっ……いや、すまん。そんなに俺のことで動揺するお前を初めて見たと思ってな」
いや、二回目か?前の件があるしな、と空いている手でわたしの頭を撫でながら彼は言う。
「……っ、やっぱりあなたはずるいわ……」
そうやって、わたしを怒らせるのも、動揺させるのも、自分しかできないってわかっているかのよう。
そして。
頭を撫でられる。
たったそれだけの行為なのに。
わたしはたったそれだけのことでも幸せに感じてしまう。
そのこともすべてわかっているかのように、彼は事あるごとにわたしの頭を撫でる。
それがずるくなくて、一体この世の何がずるいのだろう。
「俺がずるい?……それならおまえだってずるいだろう?」
言われている意味がわからなくて首を傾げると、彼はその笑みを深くして、
「そんなに無防備な顔で俺を誘ってるんだからな」
わたしの耳元に唇を寄せた。
「なっ……」
今度こそ完全に口がきけなくなってしまったわたしに、彼はダメ押しのひとことをわたしに告げる。
「今日は無性にお前に会いたくなった。……付き合ってもらうからな、覚悟しておけ」
付き合うって何に!?と焦るわたしに、アシュヴィンは堪えきれなくなったかのように、ぶはっと噴き出した。
「寝る前の散歩だ散歩。それともなんだ?別のことがしたかったのか?」
それでもこちらは全然かまわないがと、ニヤニヤ笑うアシュヴィンをどうやったら負かすことができるかと考えながら、わたしはとりあえず、
「……アシュヴィンのバカーーーーーー!!!」
と、プラス、パーンという気持ちいいくらい乾いた音をお返ししてあげた。
もう、絶対絶対口なんかきいてやらないんだから!
望美はヒノエを叩くことはできないけれど、千尋はアシュをパーンとやれます
2008/07/12 composed by Hal Harumiya
Lacrima / たったそれだけのことでも幸せに感じてしまう2008/07/12 composed by Hal Harumiya