「……神子」
静かな落ち着いた声音で遠夜がわたしを呼ぶ。 視線を向けると、遠夜は口の端を持ち上げて優しく微笑んでいた。
「どうしたの?遠夜」
そう問いかけるけれど、遠夜は笑ったまま何も答えようとしない。
少し焦れたわたしは、
「んもう、何?笑ってるだけじゃわからないよ」
と遠夜に先を促した。
すると彼は二、三瞬きを繰り返してさらに笑みを深くする。そうして、わたしを腕に抱き入れながらこう言ったのだ。
「ワギモ……やっと手に入れた。俺のワギモ、俺の神子」
と。
その言葉に、わたしは嬉しさと少しの苦さを覚えた。
遠夜の言葉は時々わからないことがある。 ワギモもそのうちの一つだ。 そして、神子、という言葉も。
わたしは確かに龍神の神子だったけれど、遠夜はそのことを言っているのではないような気がする。 わたしは遠夜がすきだけれど、遠夜は果たしてそうだろうか?
( わたしを通して誰か別の人……前世のわたしを、見ている )
ワギモという言葉も、神子という言葉もわたしのために用意された言葉ではない。 全部全部最初の神子を讃える言葉だ。
遠夜は本当にわたしのことがすきなのだろうか? 「最初の神子の生まれかわり」ではなく「芦原千尋」自身を好いていてくれているのか。 わたしには判断ができなかった。
だから遠夜がわたしを「ワギモ」や「神子」と呼ぶ時は少し胸が苦しい。 今ここにわたしと最初の神子がいたら、あなたはどちらを選んでくれるの?
考えてもどうしようもないことがわたしの頭を占めていく。 絶対わたしを選んでくれる、と言いきれない。 それが不安だ。それが苦しい。 わたしは遠夜にとってただの「最初の神子の生まれかわり」なのではないかと思うと。 胸の奥がズキズキする。
「遠夜……聞きたいことがあるの」
そう問いかけると、遠夜はきょとんとした顔をしてわたしを見た。
正直、遠夜に聞くのはかなり怖い。 もし、そうだ、とはっきり言われてしまったら、ショックで立ち直れないかもしれない。
それでも、聞いてみたかった。
「遠夜…遠夜はわたしが最初の神子の生まれかわりだからそばにいてくれるの?」
「……?何を言っているのかわからない。神子は、神子だ」
遠夜は目をわずかに見開き、さも当たり前のことを言うかのように返した。
神子は、神子。
それはつまり、遠夜の中でわたしは「最初の神子の生まれかわり」という存在だということではないのか。
「違うっ!!」
そう結論づけてしまったとき、思わず叫んでいた。
遠夜の言葉も、自分の考えもすべてを否定したかった。
「 神子……?」
わたしを見つめる遠夜が不安そうに瞬きを繰り返した。
そんな顔を見ても、わたしの感情は収まらない。
わたしは違う。 一緒にしないで。 わたしは、わたしは……っ。
「わたしは神子なんかじゃない。わたしはただの」
芦原千尋だよ。
最後まで言葉は続かなかった。
わたしの口を遠夜の手がふさいでいた。
「……神子。それ以上そんな激しい感情で言葉を紡いではダメだ。お前の言葉は今は凶器にも等しい」
言霊が宿ってしまう。
この豊芦原では、放った言葉には力が宿ってしまう。
それはとても恐ろしいことだ。
わかってる。 自分が冷静でないことぐらい。
でも、冷静になれない。
だってこの人は、また神子とわたしを呼ぶから。 わたしでない人の名を呼ぶから。
「わたしは「神子」じゃないっっ!!」
わたしは遠夜の手を振り払い、彼に向かって叫んだ。
遠夜はわたしの勢いに押されて、呆然としていた。
なんと声をかければよいか、むしろ声をかけていいものか、考えあぐねている表情。 自分に怒りが向いているのにこの人は、あまりに純粋で、無垢で……だからこそ残酷なのだ。
「置いて行くんでしょ?」
しばらくの静寂の後、ぽつりと相手に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言葉を零す。
遠夜の視線が戸惑いに揺れている。
ごめん、でも止められそうにもない。
「もしここに最初の神子がいたら」
わたしなんか置いて、その人の所へ。
だって遠夜は、ずっとその人のことを探していたんだから。
わたしはただその人の魂を受け継いだ人間にしか過ぎない。 それは「その人」じゃない。 わたしは「最初の神子」じゃない。
遠夜の恋人じゃ……ない。
だからわたしのことを「神子」とか「ワギモ」と呼ぶんでしょ?
彼女を忘れないために。 彼女に再びまみえた時のために。
すべては、彼女のために。
目の前がぼんやりと滲む。
ああ、泣きそうだ。 目のふちに涙がたまっていく。 泣くなら、始めからこんなこと言わなければよかったのに。
でも遅かれ早かれこうなっていたと思う。
遠夜から「神子」と呼ばれるたび、「ワギモ」と呼ばれるたび。 いやな感情が巣くっていくのがわかっていたから。
遠夜はわたしを見ていないとわかっていたから。
その時。
不意に、ふわっと遠夜の香りがしたかと思うと、
「だいじょうぶ、俺はここにいる。お前の……千尋のそばに」
わたしは遠夜に抱きしめられていた。
え……どうして……?
わたしはどうして遠夜に抱きしめられているのだろう?
状況がよくつかめなくて為されるがままだったわたしに、遠夜は体を少し放し目を合わせた。
そうして真剣な面持ちで言う。
「お前が神子と呼ばれるのをそんなに嫌がるなら、俺はもうお前を神子とは呼ばない」
真剣な表情。 それだけで遠夜が本気で言っていることが伝わる。
「俺が今愛しいと思うのは、お前だけだ千尋」
ゆっくり、その言の葉がわたしに沁みていく。
( お前だけだ、千尋 )
その一言が、千尋という名前で呼ばれることがこんなにも胸踊ることなのだと実感した。
「だって……俺だってもうあいつではない」
その言葉にはっとする。
最初の神子と愛し合っていた月読の君。
「記憶は持っているけれど、もう別人。俺はお前が、お前だから愛した」
遠夜はちゃんと考えてくれていたのか。 ただ、言葉にしなかっただけで。 始めからわたしを最初の神子とは切り離して見ていてくれていたのか。
遠夜が、とつとつと言の葉にしていく。
わたしはそれを一言も漏らさないよう耳を傾けた。
「俺はお前が神子の生まれかわりだから愛したわけじゃない」
それは。
「神子の魂に今度こそ守ると誓った。だから守った。そして……再び愛した。今度は芦原千尋、お前という人間だ」
一言一言がこんなにも優しく、嬉しい。
拙く話すその口調も。
「俺の話を聞いてくれて、俺を理解しようとしてくれた。俺に言葉を与えてくれた。それは誰でもない、千尋だ」
低く緩やかなその声も。
「最初の神子は、関係ない」
その言葉を聞いた瞬間、自分の目から涙が堰を切ったように流れ始めた。
遠夜はわたしが前世の恋人だからわたしをすきになってくれたわけじゃなかった。 そのことが驚くほど胸に沁みた。 わたしが本気で欲していた言葉を、この人はすべてわたしにくれた。
「な……なぜ泣く?俺の言葉は間違っていたか?」
急におろおろとする遠夜が本当に可愛らしくて、おかしくて、わたしは涙を流しながら笑んだ。
+++
「……あの神子は、あいつのものだ」
遠夜は囁くような声でわたしに告げた。
それは最初の神子と月読の君のこと?
そう返すと、ゆっくりと彼はうなずいた。
「そう。そして千尋、お前は俺のものだ」
「なっ……」
さらっとそんな大胆なことをいうものだから、一気に顔に熱がたまる。
まさかそんな言葉、遠夜の口から聞くとは思っていなかった。
言った本人は相も変わらずきょとんとした顔をして、キラキラと優しい笑顔を向けてくる。
「そして、俺もお前のものだ……千尋」
その声の甘さが、腕に込められた力の強さがわたしを幸せにしてくれる。
<
「ありがとう、遠夜。……だいすき」
心をこめて送った言葉に、遠夜はこれ以上は見られないくらい破顔して応えてくれた。
静かな落ち着いた声音で遠夜がわたしを呼ぶ。 視線を向けると、遠夜は口の端を持ち上げて優しく微笑んでいた。
「どうしたの?遠夜」
そう問いかけるけれど、遠夜は笑ったまま何も答えようとしない。
少し焦れたわたしは、
「んもう、何?笑ってるだけじゃわからないよ」
と遠夜に先を促した。
すると彼は二、三瞬きを繰り返してさらに笑みを深くする。そうして、わたしを腕に抱き入れながらこう言ったのだ。
「ワギモ……やっと手に入れた。俺のワギモ、俺の神子」
と。
その言葉に、わたしは嬉しさと少しの苦さを覚えた。
遠夜の言葉は時々わからないことがある。 ワギモもそのうちの一つだ。 そして、神子、という言葉も。
わたしは確かに龍神の神子だったけれど、遠夜はそのことを言っているのではないような気がする。 わたしは遠夜がすきだけれど、遠夜は果たしてそうだろうか?
( わたしを通して誰か別の人……前世のわたしを、見ている )
ワギモという言葉も、神子という言葉もわたしのために用意された言葉ではない。 全部全部最初の神子を讃える言葉だ。
遠夜は本当にわたしのことがすきなのだろうか? 「最初の神子の生まれかわり」ではなく「芦原千尋」自身を好いていてくれているのか。 わたしには判断ができなかった。
だから遠夜がわたしを「ワギモ」や「神子」と呼ぶ時は少し胸が苦しい。 今ここにわたしと最初の神子がいたら、あなたはどちらを選んでくれるの?
考えてもどうしようもないことがわたしの頭を占めていく。 絶対わたしを選んでくれる、と言いきれない。 それが不安だ。それが苦しい。 わたしは遠夜にとってただの「最初の神子の生まれかわり」なのではないかと思うと。 胸の奥がズキズキする。
「遠夜……聞きたいことがあるの」
そう問いかけると、遠夜はきょとんとした顔をしてわたしを見た。
正直、遠夜に聞くのはかなり怖い。 もし、そうだ、とはっきり言われてしまったら、ショックで立ち直れないかもしれない。
それでも、聞いてみたかった。
「遠夜…遠夜はわたしが最初の神子の生まれかわりだからそばにいてくれるの?」
「……?何を言っているのかわからない。神子は、神子だ」
遠夜は目をわずかに見開き、さも当たり前のことを言うかのように返した。
神子は、神子。
それはつまり、遠夜の中でわたしは「最初の神子の生まれかわり」という存在だということではないのか。
「違うっ!!」
そう結論づけてしまったとき、思わず叫んでいた。
遠夜の言葉も、自分の考えもすべてを否定したかった。
「 神子……?」
わたしを見つめる遠夜が不安そうに瞬きを繰り返した。
そんな顔を見ても、わたしの感情は収まらない。
わたしは違う。 一緒にしないで。 わたしは、わたしは……っ。
「わたしは神子なんかじゃない。わたしはただの」
芦原千尋だよ。
最後まで言葉は続かなかった。
わたしの口を遠夜の手がふさいでいた。
「……神子。それ以上そんな激しい感情で言葉を紡いではダメだ。お前の言葉は今は凶器にも等しい」
言霊が宿ってしまう。
この豊芦原では、放った言葉には力が宿ってしまう。
それはとても恐ろしいことだ。
わかってる。 自分が冷静でないことぐらい。
でも、冷静になれない。
だってこの人は、また神子とわたしを呼ぶから。 わたしでない人の名を呼ぶから。
「わたしは「神子」じゃないっっ!!」
わたしは遠夜の手を振り払い、彼に向かって叫んだ。
遠夜はわたしの勢いに押されて、呆然としていた。
なんと声をかければよいか、むしろ声をかけていいものか、考えあぐねている表情。 自分に怒りが向いているのにこの人は、あまりに純粋で、無垢で……だからこそ残酷なのだ。
「置いて行くんでしょ?」
しばらくの静寂の後、ぽつりと相手に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言葉を零す。
遠夜の視線が戸惑いに揺れている。
ごめん、でも止められそうにもない。
「もしここに最初の神子がいたら」
わたしなんか置いて、その人の所へ。
だって遠夜は、ずっとその人のことを探していたんだから。
わたしはただその人の魂を受け継いだ人間にしか過ぎない。 それは「その人」じゃない。 わたしは「最初の神子」じゃない。
遠夜の恋人じゃ……ない。
だからわたしのことを「神子」とか「ワギモ」と呼ぶんでしょ?
彼女を忘れないために。 彼女に再びまみえた時のために。
すべては、彼女のために。
目の前がぼんやりと滲む。
ああ、泣きそうだ。 目のふちに涙がたまっていく。 泣くなら、始めからこんなこと言わなければよかったのに。
でも遅かれ早かれこうなっていたと思う。
遠夜から「神子」と呼ばれるたび、「ワギモ」と呼ばれるたび。 いやな感情が巣くっていくのがわかっていたから。
遠夜はわたしを見ていないとわかっていたから。
その時。
不意に、ふわっと遠夜の香りがしたかと思うと、
「だいじょうぶ、俺はここにいる。お前の……千尋のそばに」
わたしは遠夜に抱きしめられていた。
え……どうして……?
わたしはどうして遠夜に抱きしめられているのだろう?
状況がよくつかめなくて為されるがままだったわたしに、遠夜は体を少し放し目を合わせた。
そうして真剣な面持ちで言う。
「お前が神子と呼ばれるのをそんなに嫌がるなら、俺はもうお前を神子とは呼ばない」
真剣な表情。 それだけで遠夜が本気で言っていることが伝わる。
「俺が今愛しいと思うのは、お前だけだ千尋」
ゆっくり、その言の葉がわたしに沁みていく。
( お前だけだ、千尋 )
その一言が、千尋という名前で呼ばれることがこんなにも胸踊ることなのだと実感した。
「だって……俺だってもうあいつではない」
その言葉にはっとする。
最初の神子と愛し合っていた月読の君。
「記憶は持っているけれど、もう別人。俺はお前が、お前だから愛した」
遠夜はちゃんと考えてくれていたのか。 ただ、言葉にしなかっただけで。 始めからわたしを最初の神子とは切り離して見ていてくれていたのか。
遠夜が、とつとつと言の葉にしていく。
わたしはそれを一言も漏らさないよう耳を傾けた。
「俺はお前が神子の生まれかわりだから愛したわけじゃない」
それは。
「神子の魂に今度こそ守ると誓った。だから守った。そして……再び愛した。今度は芦原千尋、お前という人間だ」
一言一言がこんなにも優しく、嬉しい。
拙く話すその口調も。
「俺の話を聞いてくれて、俺を理解しようとしてくれた。俺に言葉を与えてくれた。それは誰でもない、千尋だ」
低く緩やかなその声も。
「最初の神子は、関係ない」
その言葉を聞いた瞬間、自分の目から涙が堰を切ったように流れ始めた。
遠夜はわたしが前世の恋人だからわたしをすきになってくれたわけじゃなかった。 そのことが驚くほど胸に沁みた。 わたしが本気で欲していた言葉を、この人はすべてわたしにくれた。
「な……なぜ泣く?俺の言葉は間違っていたか?」
急におろおろとする遠夜が本当に可愛らしくて、おかしくて、わたしは涙を流しながら笑んだ。
+++
「……あの神子は、あいつのものだ」
遠夜は囁くような声でわたしに告げた。
それは最初の神子と月読の君のこと?
そう返すと、ゆっくりと彼はうなずいた。
「そう。そして千尋、お前は俺のものだ」
「なっ……」
さらっとそんな大胆なことをいうものだから、一気に顔に熱がたまる。
まさかそんな言葉、遠夜の口から聞くとは思っていなかった。
言った本人は相も変わらずきょとんとした顔をして、キラキラと優しい笑顔を向けてくる。
「そして、俺もお前のものだ……千尋」
その声の甘さが、腕に込められた力の強さがわたしを幸せにしてくれる。
<
「ありがとう、遠夜。……だいすき」
心をこめて送った言葉に、遠夜はこれ以上は見られないくらい破顔して応えてくれた。
遠夜があんまり神子ワギモ言うから……っ(ひとのせい)
2008/07/25 composed by Hal Harumiya
Lacrima / 大丈夫、僕はここにいるよ2008/07/25 composed by Hal Harumiya