熊野の山は今日も平和だ。
「おい、望美を見なかったか?」
「いいえ、わたくしは拝見しておりませんが。ふふっ頭領、また逃げられたのですか?」
「…うるさい」
「おい、望美を見なかったか?」
「いや、あっしは見ておりやせんぜ、頭領。ひょっとして奥方様、またいなくなっちまったんですかい?」
「…おい、どやされたくなかったらにやけてねぇでさっさと望美を探せ」
「へいへい。それにしても奥方はおもしろい姫君ですね。さすがは元白龍の神子様!頭領、尻に敷かれ……」
「おい!……行け」
「へいへい……(恐ぇなぁ、全く)」
そんな会話が数刻前に成されていたとも知らず、望美は己のお気に入りの場所に腰掛けていた。
そこは那智大社の近くにある大きな楠の根元。
さわさわとそよぐ風を顔に受けながら、望美はそっと目を閉じる。
そうすると気持ちが優しく落ち着いてくるのだ。
( ヒノエくんに何にも言わずに出て来ちゃった……騒ぎになってないといいなあ )
前にも似たようなことで、ヒノエは水軍衆を捜索隊として駆り出しているのである。
そのことを思い出すとヒノエには申し訳ないが顔が緩んで仕方がない。
想われている、と実感できることが幸せだった。
熊野で暮らすようになってから早3ヶ月。
まだ戸惑うこともいっぱいあるが、今の生活はすごく充実している。
あんなに帰りたかった向こうの世界も、今はあまり思わなくなった。
こっちの世界が自分の居場所だと思い始めていた。
ヒノエのそばが。
でも、時々向こうの世界のことを思い出すときもある。
結婚したって言ったら、みんなどう思うだろうか。
家族は何て言うだろう?
父親はきっと目を丸くして驚くだろう。
( 自分の娘にダンナさんがいるなんて聞いたら、卒倒するかも…一人っ子だもんね、わたし )
そんなところを想像して、彼女はおもわず苦笑いをもらした。
向こうの世界では望美はまだ未成年。まだまだ親の保護を必要とする歳である。
じゃあ母親は?
お母さんはどう思うだろうか?
そのことを考えたとき、望美からすっと笑みが消えた。
その大きな瞳をすっと細め、空を見上げる。
重なり合う葉の間から、キラキラと零れる木漏れ日を眺めて、彼女は遠い記憶に思いを馳せた。
それは、今となっては叶えられない願い。
「お母さーん。早く早く!早く行きたいー!」
「はいはい、ちょっと待ちなさい。階段走ると危ないんだからね。花嫁さんは逃げないわよ」
「わかってるけど、早く見たいの!すっごく綺麗なんだよね!望美も着たいなー」
「じゃあ望美が大きくなったらすっごく綺麗なの着ようね。お母さん楽しみにしてるから」
「うん!お母さん、望美すっごく綺麗なの着るから、だから絶対見てね!約束だよ!」
遠い過去の幼い約束。
でもこんな歳になっても覚えていた尊い約束。
( 望美、すっごく綺麗なの着るから、だから見てね!約束だよ! )
「約束だよ……か…。見せてあげられなかったな……お母さん…ごめんなさい」
朧げな記憶の奥から当時の母の笑顔を思い出した望美は、切なそうに眉を寄せた。
その時。
「……望美?」
耳に馴染んだ優しい声音。
ハッとして望美が声がしたほうに目を向けると、燃えるような赤い髪の青年がゆっくりと自分の方へ歩いて来ているところだった。
「ヒッ…ヒノエくん…、どうしてここへ?」
そう問い掛けると、ヒノエは肩を軽くすくめていつものように笑みを浮かべる。
「オレの大事な奥方が屋敷から消えちまったから、あちこち探し回ってやっと見つけたんだ。烏から報告を受けてね」
ってことは、また探すのに水軍の人達を使ったってことで。
望美は心の中でみんなに謝りながら、自然に零れる笑みをなんとか抑える。
「ご、ごめんなさいヒノエくん。ちょっと散歩したくて……」
すぐ帰るつもりだったの、と申し訳なさそうに言えば、少し強張っていたヒノエの端整な顔に安堵が浮かんだ。
「せめて誰かに伝えてから出掛けてくれない?姫君がどこぞの悪党にさらわれたのかと思ってすごく心配したんだけど」
と、ヒノエは少し厳しい口調でそう言うものの、そんな表情にはかけらも見えなくて。
本当に安心した顔に、望美は胸をぐっと掴まれたような切ない痛みを覚えた。
ああ、やっぱりわたしはこの人がすきだ。
改めて思う。
この人と出会えてよかった。
こっちの世界に残ったことに悔いなんかない。
それはもう当然のように自分の胸にある。
ときどき今日のようにふっと向こうの世界を思い出すことがあると思う。
今までもそうだった。
これからも必ず。
それでもわたしはきっとこの世界に残るのだろう。
目の前のこの人と一緒にいたいから。
並んで立つことのない未来なんか頭にないくらい。
「うん、うん!心配かけてごめんね。わたしはどこにも行かないよ、絶対」
望美はいろんな意味を込めてヒノエに告げた。
ヒノエはいっそうその笑みを深くして。
「…ああ、嬉しいね。姫君からそんな熱烈に想ってもらえてるなんて」
少し強めに望美の体を抱きしめる。
「ヒノッ…!?」
どうしたの、と尋ねる声はよりいっそう強まった腕の力で消えていった。
「ヒノエく……?」
「行くな」
低い低い声。
とても微かで耳をこらさなければ聞こえないようなそんな声。
「え…?」
「行くな。……月の世界になんか…オレのとどかないところになんか、行くな」
そう言って、さらに強く抱きしめる。
不安が溢れた顔を見られないように望美の肩に顔をうずめる。
言わずにはいられなかった。
( お母さん…ごめんなさい )
自分が望美を見つけたとき聞こえた言葉。
望美は後悔しているのだと思った。
罪悪感が胸を即座に占めた。
一人になってまで考えたいことが向こうの世界のことで。
望美は帰りたいのだと、家族に会いたいのだと悟った。
オレが無理やり残したから恋しくなったのだと。
でもオレは離したくない。帰したくない。
どこにも行かずずっとオレのそばにいてほしい。
オレの一番のわがまま。
でも、何を置いてもこれだけは譲れない。
だから、不安になるんだ。オレだけがすごくすきなんじゃないかって。
いつかお前がオレを置いて月へ帰ってしまうんじゃないかって。
まるで月へ想いを馳せる竹取の姫のように。
でもオレにはそんなお前を引き止める術がなくて。
こんな風に縋って引き止めるしか。
「ヒノエ……く…?」「なにも、何も言うな」
ただ、オレのそばに。
そんなヒノエの心情を読み取ったのか、望美は困惑からふっと微笑みに表情を変えた。
そしてヒノエに両手を回すとぎゅっと抱きしめ返す。
「もしかして…聞いてた……?さっきの独り言」
途端にヒノエの体がびくっと揺れる。
「……悪い、聞くつもりはなかったんだ」
すまなそうに苦しそうに告げるヒノエが本当に愛しくて。
望美は少し体をずらして、額をヒノエのそれと合わせる。
コツ、と優しく響く音がした。
「のぞ……」「ねぇヒノエくん、わたしが今すっごく幸せなの、わかる?」
瞳を閉じて望美は呟く。
口元に微笑みを湛えている彼女は本当に幸せそうで。
「ヒノエくんがわたしを守ってくれるのも、こうやってわたしに弱いとこ見せてくれるのも、全部嬉しいし、幸せ」
だからわたしはどこにも行かない、と。
ヒノエは茫然とその言葉を聞いていたが、ゆっくりと顔をあげた。
瞳は真摯、しかしかすかに不安で揺れている。
「…ホン、トに……?」
「うん、わたしはどこにも行かない」
不安が溢れている問いを、力強く打ち消す。
それが望美の答え。
家族を思い出しても寂しく思っても、結局行き着く想いの先にはいつもヒノエがいる。
それくらい目の前の青年は大事な人なのだ。
「わたしはずっとあなたの側にいるから」
だから、大丈夫と彼女は笑った。
「……ああ、そうだね」
ようやくヒノエもぎこちなくだが笑みを返す。
不安に思うことが消えたわけではない。
でも、彼女が、望美が絶対というから。
「お前は約束を違えるような姫君じゃなかったね。……これからも……ずっとオレの側にいてくれるか?」
確信がほしくて聞いた言葉に、彼女は破顔して応えた。
「もちろんっ!」
わたしが戻ってくる場所はどこに行っても必ずあなたのもとだよ。
ねぇだって、月って必ず還って来るじゃない?
わたしが月の姫なら……必ずあなたのところに還って来るよ。
それは遠い記憶より鮮やかな、永遠の約束。
「おい、望美を見なかったか?」
「いいえ、わたくしは拝見しておりませんが。ふふっ頭領、また逃げられたのですか?」
「…うるさい」
「おい、望美を見なかったか?」
「いや、あっしは見ておりやせんぜ、頭領。ひょっとして奥方様、またいなくなっちまったんですかい?」
「…おい、どやされたくなかったらにやけてねぇでさっさと望美を探せ」
「へいへい。それにしても奥方はおもしろい姫君ですね。さすがは元白龍の神子様!頭領、尻に敷かれ……」
「おい!……行け」
「へいへい……(恐ぇなぁ、全く)」
そんな会話が数刻前に成されていたとも知らず、望美は己のお気に入りの場所に腰掛けていた。
そこは那智大社の近くにある大きな楠の根元。
さわさわとそよぐ風を顔に受けながら、望美はそっと目を閉じる。
そうすると気持ちが優しく落ち着いてくるのだ。
( ヒノエくんに何にも言わずに出て来ちゃった……騒ぎになってないといいなあ )
前にも似たようなことで、ヒノエは水軍衆を捜索隊として駆り出しているのである。
そのことを思い出すとヒノエには申し訳ないが顔が緩んで仕方がない。
想われている、と実感できることが幸せだった。
熊野で暮らすようになってから早3ヶ月。
まだ戸惑うこともいっぱいあるが、今の生活はすごく充実している。
あんなに帰りたかった向こうの世界も、今はあまり思わなくなった。
こっちの世界が自分の居場所だと思い始めていた。
ヒノエのそばが。
でも、時々向こうの世界のことを思い出すときもある。
結婚したって言ったら、みんなどう思うだろうか。
家族は何て言うだろう?
父親はきっと目を丸くして驚くだろう。
( 自分の娘にダンナさんがいるなんて聞いたら、卒倒するかも…一人っ子だもんね、わたし )
そんなところを想像して、彼女はおもわず苦笑いをもらした。
向こうの世界では望美はまだ未成年。まだまだ親の保護を必要とする歳である。
じゃあ母親は?
お母さんはどう思うだろうか?
そのことを考えたとき、望美からすっと笑みが消えた。
その大きな瞳をすっと細め、空を見上げる。
重なり合う葉の間から、キラキラと零れる木漏れ日を眺めて、彼女は遠い記憶に思いを馳せた。
それは、今となっては叶えられない願い。
「お母さーん。早く早く!早く行きたいー!」
「はいはい、ちょっと待ちなさい。階段走ると危ないんだからね。花嫁さんは逃げないわよ」
「わかってるけど、早く見たいの!すっごく綺麗なんだよね!望美も着たいなー」
「じゃあ望美が大きくなったらすっごく綺麗なの着ようね。お母さん楽しみにしてるから」
「うん!お母さん、望美すっごく綺麗なの着るから、だから絶対見てね!約束だよ!」
遠い過去の幼い約束。
でもこんな歳になっても覚えていた尊い約束。
( 望美、すっごく綺麗なの着るから、だから見てね!約束だよ! )
「約束だよ……か…。見せてあげられなかったな……お母さん…ごめんなさい」
朧げな記憶の奥から当時の母の笑顔を思い出した望美は、切なそうに眉を寄せた。
その時。
「……望美?」
耳に馴染んだ優しい声音。
ハッとして望美が声がしたほうに目を向けると、燃えるような赤い髪の青年がゆっくりと自分の方へ歩いて来ているところだった。
「ヒッ…ヒノエくん…、どうしてここへ?」
そう問い掛けると、ヒノエは肩を軽くすくめていつものように笑みを浮かべる。
「オレの大事な奥方が屋敷から消えちまったから、あちこち探し回ってやっと見つけたんだ。烏から報告を受けてね」
ってことは、また探すのに水軍の人達を使ったってことで。
望美は心の中でみんなに謝りながら、自然に零れる笑みをなんとか抑える。
「ご、ごめんなさいヒノエくん。ちょっと散歩したくて……」
すぐ帰るつもりだったの、と申し訳なさそうに言えば、少し強張っていたヒノエの端整な顔に安堵が浮かんだ。
「せめて誰かに伝えてから出掛けてくれない?姫君がどこぞの悪党にさらわれたのかと思ってすごく心配したんだけど」
と、ヒノエは少し厳しい口調でそう言うものの、そんな表情にはかけらも見えなくて。
本当に安心した顔に、望美は胸をぐっと掴まれたような切ない痛みを覚えた。
ああ、やっぱりわたしはこの人がすきだ。
改めて思う。
この人と出会えてよかった。
こっちの世界に残ったことに悔いなんかない。
それはもう当然のように自分の胸にある。
ときどき今日のようにふっと向こうの世界を思い出すことがあると思う。
今までもそうだった。
これからも必ず。
それでもわたしはきっとこの世界に残るのだろう。
目の前のこの人と一緒にいたいから。
並んで立つことのない未来なんか頭にないくらい。
「うん、うん!心配かけてごめんね。わたしはどこにも行かないよ、絶対」
望美はいろんな意味を込めてヒノエに告げた。
ヒノエはいっそうその笑みを深くして。
「…ああ、嬉しいね。姫君からそんな熱烈に想ってもらえてるなんて」
少し強めに望美の体を抱きしめる。
「ヒノッ…!?」
どうしたの、と尋ねる声はよりいっそう強まった腕の力で消えていった。
「ヒノエく……?」
「行くな」
低い低い声。
とても微かで耳をこらさなければ聞こえないようなそんな声。
「え…?」
「行くな。……月の世界になんか…オレのとどかないところになんか、行くな」
そう言って、さらに強く抱きしめる。
不安が溢れた顔を見られないように望美の肩に顔をうずめる。
言わずにはいられなかった。
( お母さん…ごめんなさい )
自分が望美を見つけたとき聞こえた言葉。
望美は後悔しているのだと思った。
罪悪感が胸を即座に占めた。
一人になってまで考えたいことが向こうの世界のことで。
望美は帰りたいのだと、家族に会いたいのだと悟った。
オレが無理やり残したから恋しくなったのだと。
でもオレは離したくない。帰したくない。
どこにも行かずずっとオレのそばにいてほしい。
オレの一番のわがまま。
でも、何を置いてもこれだけは譲れない。
だから、不安になるんだ。オレだけがすごくすきなんじゃないかって。
いつかお前がオレを置いて月へ帰ってしまうんじゃないかって。
まるで月へ想いを馳せる竹取の姫のように。
でもオレにはそんなお前を引き止める術がなくて。
こんな風に縋って引き止めるしか。
「ヒノエ……く…?」「なにも、何も言うな」
ただ、オレのそばに。
そんなヒノエの心情を読み取ったのか、望美は困惑からふっと微笑みに表情を変えた。
そしてヒノエに両手を回すとぎゅっと抱きしめ返す。
「もしかして…聞いてた……?さっきの独り言」
途端にヒノエの体がびくっと揺れる。
「……悪い、聞くつもりはなかったんだ」
すまなそうに苦しそうに告げるヒノエが本当に愛しくて。
望美は少し体をずらして、額をヒノエのそれと合わせる。
コツ、と優しく響く音がした。
「のぞ……」「ねぇヒノエくん、わたしが今すっごく幸せなの、わかる?」
瞳を閉じて望美は呟く。
口元に微笑みを湛えている彼女は本当に幸せそうで。
「ヒノエくんがわたしを守ってくれるのも、こうやってわたしに弱いとこ見せてくれるのも、全部嬉しいし、幸せ」
だからわたしはどこにも行かない、と。
ヒノエは茫然とその言葉を聞いていたが、ゆっくりと顔をあげた。
瞳は真摯、しかしかすかに不安で揺れている。
「…ホン、トに……?」
「うん、わたしはどこにも行かない」
不安が溢れている問いを、力強く打ち消す。
それが望美の答え。
家族を思い出しても寂しく思っても、結局行き着く想いの先にはいつもヒノエがいる。
それくらい目の前の青年は大事な人なのだ。
「わたしはずっとあなたの側にいるから」
だから、大丈夫と彼女は笑った。
「……ああ、そうだね」
ようやくヒノエもぎこちなくだが笑みを返す。
不安に思うことが消えたわけではない。
でも、彼女が、望美が絶対というから。
「お前は約束を違えるような姫君じゃなかったね。……これからも……ずっとオレの側にいてくれるか?」
確信がほしくて聞いた言葉に、彼女は破顔して応えた。
「もちろんっ!」
わたしが戻ってくる場所はどこに行っても必ずあなたのもとだよ。
ねぇだって、月って必ず還って来るじゃない?
わたしが月の姫なら……必ずあなたのところに還って来るよ。
それは遠い記憶より鮮やかな、永遠の約束。
お題は『ヒノ望でED後』でした とことんヨワッチイヒノエくんを書かせていただきました
2005/11/01 composed by Hal Harumiya
11000hit代打リク present for Rinne.Narumi2005/11/01 composed by Hal Harumiya